どーも、子供たちにブラウン管テレビの説明をしたときに年を感じた親男です。
(子供たちの骨董を見るような目がさらに追い打ちをかけてきました)
さて、唐突にタイトルのようなことを考えるきっかけになったのは、以下の写真。
「ベリーの暮らし」で我が家の桃鉄大会の模様をリポートしたものです。
ベリーの暮らしより
で、この写真を見て。
ふと。
テレビ、ちっちゃと。
そう思ったのです。
私やベリーさんの実家にあるテレビの何分の一なんだろう。。。
ふむ。実にちっちゃい。
ただ。
別に全然私たちは不足を感じていないわけです。(まあ、そもそも住宅事情が大きいテレビを許さないということもありますが)
で、さらに「でも」なんですが。
田舎の親たちはこのテレビの大きさにどうも不安を感じるようなんです。
つまり。
テレビの大きさ=生活の豊かさ、という。
昭和の幻想がまだしっかり残っているわけで。
私たちの生活に何か不足があって、この↑のようなテレビのサイズだと思っているようなんです。
実にくだらん幻想です。
と切って捨てるのは簡単ですが。
昭和のころの生産しては売れ、売れては生産して、という経済状況の中で生きてきた親たち世代は、やっぱりテレビはもとより、家でも車でも大きなものを求め続けたのは、ある意味仕方のないことなのかなと思うわけであります。
ただ。
世の中はそこからさらに平成と令和と二つの時代を刻んでいるので、いつまでも昭和の価値観で行くのは、あまりにも生活のロスが大きすぎるんじゃないかなとも思うわけであります。
経済合理性という言葉を出さずとも、生活の無駄をなくしてコンパクトに小回り良く生きる、ということに価値観がシフトしているとしたら。
テレビが大きいとか。
大きい家を建てたとか。
デカい車に乗るのが夢とか。
そういった幻想は。
ちょっとパーペキにチョベリバな死語の世界と同じくらいに切ない感じかなーと。
で、その意味をさらによくよく考えてみると。
実は「大きい」こと自体が目的や満足というわけではなく。
ただ、単純に「他人の眼」や「よその家との比較」という点においての「優位性」が必要だったのではないかとも思った瞬間からやっぱり切ない思いが「ちょちょきれる」わけであります。
というわけで。
ただし。
ここで言っていることを実家の親たちに納得させるのは、もう無理であり、むしろ残酷。
なのであれば、せめて安心させるために。
プロジェクターを用意して、家族で大画面で視聴しているシーンを見せてあげるという。
非常に迂遠な親孝行をする親男なのであります。めんどくさ。