どーも、高校の頃、友達とミスタードーナツで2時間くらい平気でおしゃべりができた親男です。
(今考えるとほぼ狂気の沙汰で。孤独のグルメな出張旅(来週は京都)をする私としては、なんで当時はそんな鬱陶しいことができたんだろうと、普通に疑問であります。)
さて。
先日、夫婦でインスタライブをした時に頂戴した質問に、追っかけでお答えする第二弾です。
(妻ベリーさんがいただいた質問に勝手に答えちゃうって企画です。)
で。
ご質問:勉強は何時間やっていますか?
👇
このご質問ですが。
似た感じのものを何個も頂戴していました。
で。
この質問。
私は。
残念ながらまったく意味をなさない、と考えます。
なぜなら。
集中してない2時間。
集中している15分。
鼻ほじって天を仰いで勉強机に座っているだけの1時間。
難問に格闘している30分。
習慣化している毎日の20分。
といった時間を。
ただの「時間」という物差しで比べるのは無駄だということは。
誰にでもわかることだと。
つまりそういうことなわけです。
この例えならいともたやすくわかるのに。
どうして得てして「どれくらいの時間を勉強すればいいのか」ということに囚われてしまうのか。。。
その理由は。
主にふたつあって。
ひとつは。
「学年+1時間の勉強時間」という頭の悪い指標と。
ふたつめは。
多くの人々は時間で報酬を得ているということなんじゃないかと思うわけです。
ひとつめの指標については。
長男坊が小学1年になったとき、入学した小学校でまことしやかに言われていた学習指導でした。
ことさら突飛な学習指導なんて出さない普通の公立小学校だから。
たぶん結構一般的になっているんじゃないかと想像するわけです。
これは上述のとおり、当然のごとく意味をなさないものにも関わらず。
この指標を信じ込んでしまった結果。
もしも非効率的な勉強で時間を費やしてしまった子どもが。
その通りやったのに、努力が報われなかった。
なんて思う弊害しか産まないんじゃないかと思うわけです。
そして。
ふたつめは。
およそ仕事をしていれば、なんらかの報酬を得ているわけですが。
多くの場合においてそれは時間に換算されてしまうという悲しい現実があるわけです。
それが。
この「勉強は何時間やっていますか」という質問につながっちゃっているんじゃないかと私は推測します。
よーする。
年俸でも。
月給でも。
週給でも。
日給でも。
時給でも。
全部「時間」に連動した報酬なわけです。
この場合、多くの場合においてはその拘束時間が報酬に結びついて。
「拘束している(されている)時間」が「成果」ということになってしまうわけです。
(でもホントのところは。「成果」と「報酬」が結びつくのは「評価」のタイミングくらいですけど。)
なので、ついつい。
子どもたちの勉強時間についても。
👆の公式。
「拘束している(されている)時間」=「成果」と誤解してしまうわけです。
ということで。
じゃあ、どうしたらいいのかというと。
時間で勉強の成果をはかるのはやめましょう、ということに尽きます。
つまり。
何をどれだけ覚えたか。
何をどれだけのはやさでできるようになったか。
勉強のインプットとアウトプットの成果なんて究極的には上の2つしかないわけだから。
それで測ればいいってことです。
だから。
一日でどれだけ覚えたか。
一ヶ月でどれだけはやくできるようになったか。
といったようなことを勉強の指標にするといいわけで。
それをつよくお勧めするものであります。
つーことで。
ならオメーは時間を有効に使っているのか、と言いますと。
ビジネスシーンでは時短スキルはそこそこあると思いますが。
プライベートではからっきしであります。
2,3時間ボーッと自転車を漕いでたりするのが好きだから。
効率厨からしてみると。
あんまりタイパはよくないようなことをやっているわけであります。