どーも、痛いことに極度に弱い親男です。
(小さな傷や病気でことのほかヒーヒー言うようなやつであります。)
さて。
我が家の小さな居酒屋。
台所の片隅居酒屋では。
一日どんなことがあったのか、どんなことを考えたのか、私と妻ベリーさんの情報共有の場であります。
その居酒屋でいろいろと話したことで。
考えさせられて。
ブログを書いたりするわけですが。
それが今日。
と言いますのも。
今日話しをしたのが。
お産の時の痛みのこと。
ベリーさんと無痛分娩やお産における痛みの経験のことなんかを「痛み」をキーワードに話したわけです。
で。
日本には痛みを強いる文化があるんじゃないかということ。
お産の痛みを経験してこそ、母親としての自覚が芽生える、とか。
苦労は買ってでもしろ、とか。
丸刈りにしなけりゃ統制が取れない、とか。
厳しい厳しい練習を経なけりゃうまくならない、とか。
圧迫面接とか。
新人や後輩に対しての忌まわしき通過儀礼とか。
そういう文化が日本にはあるんじゃないか、と。
もちろん👆については粒度はバラバラだから。
並列にして例示するとちょっと変な感じで。
とりあえず並べ立てた感もありますが。
私としては。
根っこはなんか似ている気がするわけです。
痛みがあることによって事が成せるという。
そういう幻想。
そう。
それは幻想なんじゃないかと思うのです。
痛みなんかない方がいいじゃん。
痛み自体に意味なんてないわけで。
痛みが人間を成長させるなんて、上の世代が統制上、都合よく取り入れているようなもので。
痛みはイニシエーション、通過儀礼という意味付けを与えたのは。
痛みが不可避な原始の頃の名残なんじゃねーの。
痛みが回避できる時代に生まれて。
それができるなら回避すればいいじゃん。
肉体も精神も時間もお金もすり減らないから何もかもいいじゃん。
と。
考えるわけです。
自分が喰らった痛みを自分以外の人(特に下の世代)も喰らってしまえ。喰らうべきだ。
というサディスティックな感覚。
それで世代をつなぐ文化ができあがっているって、やっぱちょっと異常だよ、とも思います。
ということで。
痛みなんてない方がいいじゃん、ハナホジー。
スーダラ節で。
C調。
って感じなくらいが人生はちょうどいい。
と無責任男で。
5時から男の私は考えるわけであります。
(オール死語で推してみた)
つーか、まー。
おっさんやジジイやババアががなり立てて押し売りしてくる、痛みを強いる文化なんて心底なくなっちまえ。
と再度声高に宣言して本日のブログ記事を締めくくるものであります。
お手々のシワとシワを合わせて南無〜。