どーも、多様性を認められない人は一定数必ずいて、その辺との折り合いをどうつけるのかを考えるのも「多様性を認めること」の一つに入っていると思う親男です。
(のっけからめんどくせーこと書いてんな、って思われちゃうような書き方だな。。。)
さて。
世は多様性尊重社会に突入であります。
およそ私が子どものころに知っていること以外に様々な人々がいて。
「自分」以外、もしくは「自分の所属しているところ」以外とともに社会は成り立っていると理解しなくてはいけない時代になっているとヒシヒシと感じます。
それはやはりインターネット、SNSといったツールを用いて、個々人が発信しやすくなった環境から。
いわゆるマイノリティの人たちの生の声を聞けるようになったからなんだと思います。
恐らくは。
私は日本で住まうマジョリティに属していると思われるわけですが。
(まあ、家族全体の属性(子ども4人、夫婦共働き、夫婦双方の実家が遠方、みたいな)を入れるとマイノリティになると思いますけど。。。)
私自身は願わくば、今後脳みそが老いさらばったとしても、マイノリティの人たちのことや多様性について感度高く保っていたいと思うわけであります。
👇は微妙な表現になりますが。。。
それが私にとっての「正義」なわけです。
(「正義」を振りかざして題目にすること自体の危険性は十分承知していますが。。。)
で。
問題なのは。
知らなきゃ「多様性を尊重する」なんてことは土台無理なのではないかという話であります。
そういった人たちがいる。
ということを知らなければ尊重もできない。
以下は非常に卑近な例で、お気に障る方もいるかもしれませんが。
例えば。
私が子どものころは男の子で女性っぽい子は「おかま」と言われてました。
おかまっぽい。
お前、おかまかよ。
みたいな。
👆が。
いろんな意味で今じゃNGな表現だということは。
「LGBTQ」のことをそれほど知らなくてもなんとなくわかる話で。
しかし、昭和のころは👆の概念がないわけで。
小学生の私は平気で使っていたわけです。
つまり。
つまーり。
多様性を認めるということはそういうことじゃないかと思うのです。
知らなきゃ慮れない。
慮る取っ掛かりすらない。
という状態です。
私は。
子どもたちにそういったことを教えていきたいな、と思っています。
「知らなかったからごめんね。」
はもうダメな時代なわけで。
「だって知らなかったんだよ~」
はなんの言い訳にもならない。
それで誰かを傷つけていいわけではないわけです。
ということで。
私は私自身が学び続けなきゃ、こんなことを子どもたちに言えるわけでもないことは十分に理解しています。
だから。
今後、私の脳みそは徐々に切なくなってくるのは生物としてしょうがないとしても。
その辺の感度だけは、どうぞ今のままで維持してください。
なんて思うわけであります。
しかし。
それでも世界と社会はマイノリティを差別する。ってのが。
どうやっても避けられない宿命なのだとしても。
知ることで受け入れることのできる人はきっと増え続けるはずで。
で。
悲しいけど差別自体はなくならないかもしれないけど。
私は。
受け入れることのできる人の方が多くなるような世の中を望むわけであります。
てなことを。
このブログを借りて。
私の子どもたちに発信させていただくものであります。
(なら直接言えよ、って話ではあるんですけどね。。。しかし、このブログは記録されるので、いつか子どもたちの子どもたちにも伝わればいいな、なんて。)