どーも、男性の育児・家事が日本でいまいち定着しないのは、いつまでも「お手伝い」感がつきまとうからなのではないかと思う親男です。
(もしも主体的に取り組んでいるなら「イクメン」とか「カジメン」なんてバカバカしい言葉は生まれないわけです。)
さて。
ただでさえ、うるさいわが家なわけですけど。
そんなわが家でひと際。
ほぼ毎日。
うるささのピークになるのが。
子どもたちの洗濯物畳み。
これが。
これがまた。
毎回毎回、きょうだい同士の喧嘩のタネになったり。
私や妻ベリーさんからのお小言のタネになったり。
考え方によっては。
ない方がよっぽどいいくらい、うっとうしい儀式なわけであります。
ギャーギャー言う前にとっとと手を動かせよ。
なんてフツーに思うわけですが。
よくよく考えてみますと。
洗濯物畳みは。
彼らにとっては「お手伝い」というよりも。
主体的に取り組む(羽目になってしまっている)「家事」なのではないかと。
思うわけであります。
喧嘩して。
へそ曲げて。
泣き出して。
ふざけて。
その挙句の果てに私やベリーさんから怒られても。
私達夫婦はよほどのことがない限りはそこに介入はしません。
(私はたまにギャーギャーが聞きたくないからやってやるときもありますが、ベリーさんはほぼ手を出しません。)
ということは。
彼らが主体的に動かなけりゃ、取り込んだ洗濯物の山は。
洗濯物の山のままなわけで。
それは「お手伝い」ではなくて。
まさに「家事」なんじゃないのかな、なんて思ったわけであります。
と考えると。
とても頼もしく、かつ良いことのように思えてきますが。
前述した通り。
この洗濯物畳みが。
喧嘩とお小言のタネになっている事実は否めないわけで。。。
何事も思うようには行かず、ままならないものなのです。
ということで。
ワシの今回の書き方で。
もしかすると。
非常に良い教育効果、もしくは家事への取り組みを行っているように聞こえるかもしれませんが。
まあ。
実態は。
クソうるさい夕方のルーティン(家事)。
といったところです。
(なのでたまに見ているこっちがげんなりするわけですけど。。。)
だけど。
私は確信しています。
これは間違いなく、子どもたちにとって良いはずだと。
「家事」はどんなに面倒くさくても。
疲れていても。
泣きそうでも。
放り出したかったとしても。
必ず生きている限りは発生することなわけです。
家事をおざなりにしてたり、無視してても。
そいつのために、誰かが必ずやってくれているものなので。
もしも「家族」をマジで考えるなら。
しっかりと主体的に向き合っていかなくてはいけないものなのだと思うのです。
だから。
喧嘩しようか怒られようが。
子どもたちが主体的に取り組む「お手伝い」ではない「家事」の存在は。
生きることにおいて必ず彼らの役に立つものだ。
と。
立ったまま白目をむいて吐けるくらい家事がキライなワシでも。
そう考えるのであります。