どーも、生きることは楽しむことだと思う親男です。
(もちろん理不尽につらいことを楽しむことなんてできないかもしれません。けど、総じてそう思っていたいかな、と。むしろそう信じていたいと思うわけであります。)
さて。
本日、私の大学時代の旧友と二人きりの忘年会をしてきました。
なかなかにボリュームのあるあんこう鍋で。。。
マジで腹がいっぱい過ぎるぜ。。。
で。
そこでいろいろと話をしたわけですが。
この歳になってくると当ったり前として。
人生はそれぞれになってきているわけです。
ホント、それぞれ。
それでも。
楽しく飲めるのは。
お互いがお互いの人生を傍観しているという点。
つまり。
別に。
あいつはあいつ。
ワシはワシ。
というスタンスだから。
一方は婚姻中で、一方は離婚していても。
4人の子どもと暮らしている方と、離婚後一人の子どもと離れていても。
だから何。
と。
まさに。
「彼我の人生」として。
ワシは何の斟酌もなく、自分の奥さんと子どもたちとの生活を話し。
あいつはそれを聞き。
あいつは何の躊躇もなく、元奥さんとお子さんのことをワシに話し。
ワシはそれを聞くわけです。
つまり。
旧友と話すってことはそういうスタンスじゃなきゃつらいだろうな、と。
交差していたり、ごく近くで平行していた。
学生時代からのお互いの人生のベクトルは。
人生が進めば進むほど少しの角度の違いが。
大きな差となって表れてきて。
人生半ばで確認するとエライ距離が出ていたりするわけです。
その差を。
どっちがプラス方向で。
どっちがマイナス方向で。
と捉えない。
これが旧友と一緒にいる時間が。
月のようになるか、スッポンみたいになるかの境目かなと。
それができないと。
旧友との飲みなんて。
苦行でしかないですし。
恐らく。
親交ってものはそれで継続するのか、途絶えていくのだろうと思います。
不幸も。
幸せも。
自分の意識下にあるものだとすると。
論理的には。
それは考えようによってどうにでもなるわけです。
もちろん。
抗いがたい理不尽な出来事が。
嵐のように人生を襲うことはあるでしょうけど。
それはもちろん。
ツラいものだと思いますけど。
何よりもツラいのは。
他者と比較して人生を把握してしまうことなのではないかなと。
そんな風に思うわけであります。
私。
同窓会は絶対に出ないことに決めているのですが。
それの理由は👆をはき違えていそうな奴がいるからです。
自分とその他を比較してしか幸せを感じられない。
てか。
むしろ。
その行動自体が「不幸のはじまり」に他ならなくて。
それに気づいていないバカ。
たぶんそんな奴らが一定数いそうな会なんて。
まっぴらご免であります。
ということで。
ワシと旧友は。
幸いなことに。
お互いを比較するような間柄でもなく。
まったく違う人生をそれはそれと受け止めることができるので。
一緒にいる時間を楽しめるのかなと思うわけです。
腹パンパンであんこう鍋屋を出た後。
そいつが自分のやもめ暮らしで飲みなおさないか、と提案してくれましたが。
それに快諾できて。
その後二人でスーパーに行くのも。
そいつの家で大学以来20数年ぶりに「宅飲み」するのも。
お互いがお互いの人生であることを認識していることに他ならないのかなと。
で。
不幸とは。
他者との比較の中にあって。
自分の意識の中にあるのかなと。
考えながら。
帰ってきたわけであります。