親男日誌 ―4人きょうだいとベリーさんと私―

都内で夫婦共働き、4人の子育て(ナルニア物語と同じ男→女→男→女)、妻はベリーの暮らしのベリーさん、そんな家族のお父さんのブログです

【再現性のある家族は】ない。

どーも、理想の家族、理想の子育て、理想の自宅学習、理想の親子関係、理想の介護、理想の看取り、理想のお一人様、理想の葬儀、理想の相続、理想の墓仕舞い、と人生における「理想」がうるさいと思う親男です。

(そのへんが出版業界の突きどころで、売り場なのでしょうが、実際うるさいわ!って思います。)

 

さて。

 

まったくうろ憶えなので。

正しいかどうか自信がありませんが。

大学の頃に「科学は再現性の有無で定義される」というのが。

西洋倫理思想史みたいな授業で習った記憶があります。

 

曰く。

神と再現性。

再現性と科学。

の関係は西洋の歴史を語るうえで、非常に重要であると。

 

神の存在がすなわち宇宙の法則であり。

人間が法則や定理を発見するというのは、丹念に神の事跡を辿ることになる。

 

というような感じだったと思います(ホントかなー、自信ねーなー)。

 

で。

その「再現性」という点で言いますと。

家族に再現性はないんじゃないのかな、なんてつくづくと考えるわけです。

 

住む場所、時代、タイミング、構成、食べるもの、職業と。

とにかく家族は構成する人と属性のパターンは相当な数で多岐に渡るので。

そもそも同じパターンにすること自体が難しかったりするわけですが。

仮にまったく同じ構成と属性であったとしても「同じ家族」にはならないんじゃないのかなってのが、私の考えです。

 

そんなことは不可能ですが。

ラノベのタイムリープ的に何回か同じ朝を迎えるように。

ある家族が同じ期間の経験を繰り返すことができたとしても。

「同じ家族」にはならないんじゃないでしょうか。

 

だから、再現性は家族に期待できないんじゃないのかと。

 

ってことを考えますと。

冒頭の「理想の〇〇」というのは。

どっかの誰かの体験が散りばめられ、織り込まれている言説であるとしたら。

それに再現性はあるかって思うわけです。

 

つまり。

「理想の〇〇」なんて。

どっかの誰かのたまたまの成功体験(もしくは失敗体験)なだけじゃん、みたいな。

そこに再現性が望めないとしたら。

憧れて真似るだけ無駄、みたいな。

 

他者の人生経験は。

大いに参考にするべきだとは思いますが。

真似ても再現性がないんだとしたら。

無駄に憧れるのは違うんだろうな、と。

 

 

ということで。

 

なんでこんなことを考えたのかと申しますと。

 

たまたま。

ある犯罪の加害者とその家族と、被害者と被害者家族のルポを読んで。

家族の形について考えたからなのでした。

 

そのルポを読みながら。

「理想の家族」って。

「理想のお父さん」って。

「理想のお母さん」って。

「理想の子ども」って。

なんてことを考えたら。

すべてがナンセンスに思えて。

にも関わらず。

それにつけても、世の中には「理想の〇〇」が溢れていて。

 

どうして人は同じ様になるはずもない「理想の家族」に憧れるんだろう。

と、思っちゃったわけです。

 

そもそも誰の頭の中の「理想」なのかもわからないようなものに。

左右されたり、憧れたり。

嫉妬したり、羨んだり。

ホントに一体全体、人は何に「理想」を見ているんだろう。

 

私が子どもの頃から大好きな小説に「ゲド戦記」があります。

結局、主人公のゲドが対決・対峙しようとして、追い求めていたものは何なのか。

そういうゲドの業(ごう)のようなものが。

「理想の〇〇」、「理想の家族」というジレンマと、とても似ているなーなんて思うのです。

(読んでない方はなんのこっちゃでしょうが、ネタバレの内容なので、こんな感じですみません。)

 

つーわけで。

私は思います。

「理想の家族」も「理想の人生」も存在なんてしないんだから。

そんなものに脅かされたれたり、憧れたりしないで。

自分の家族と自分の人生のあるがままをどう見つめるのか。

それらをどう良くするために考えるのかが大事なんじゃないのか、と。

 

結局のところ。

どうしようもないくらいにシンプルでありきたりな結論なんですけどね。。。

 

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