どーも、弁当づくりってネタの宝石箱やって思う親男です。
(絶妙に言い回しが古い。。。)
さて。
弁当と禅は通ずる。
これはかの有名な料理家であり陶芸家でもある都大路 狭苦(みやこおおじ きょうく、没年不明)が放った至言であります。
曰く。
弁当とはそもそも箱という有限の中での料理表現の一形態と言へる。
その有限の中で限られた資材(おかず)と人の手から成る工夫を使い、初めて形を成すものなり。
而しておおよそ多くの場合においてはその評価を下すのは自分に非ず。
つまりにおいては、食うのは自分ではなく、その子であったり伴侶であったりする。
そのような弁当の形を考えるに、極めて水墨画の性質と似通うものなり。
水墨画を描く画仙紙もまた有限であり、墨の濃淡の工夫で画の形を成す。
加えて画を見てその評価を下すのも自分ではなく、他者なり。
そうこう考えるとただひたすらと無心に日々の弁当づくりに勤しむということは、まさに只管打坐に通ずるものと言へるものである。
(都大路狭苦、「さあみんなでキュンと弁当を考えようぜ(民明書房、2025)」より)
。。。
。。。
。。。
。。。うん、くだらない。
ということで。
書くことないので。
ついに自作自演のフェイクなことを書き連ねて文字数を埋めるようになったワシに幸あれ。
いやマジで今日は書くことなかったんです。
なので、毎度のことながら弁当の画像を貼っちゃいます👇️。
いつもは出来上がった弁当はせめてテーブルの上にきれい並べて記録写真を撮るのですが。
昨日は長男坊主が朝練かなんかで早めに家を出たい、と。
しかし、その日は家族6人中4人分の弁当を作らなくてはいけない日で。
詰めるのに時間がかかっていたら、ワシの横に来て、口には出さないまでも絶対に頭の中で「ねぇ、まだ?もう行かなくちゃ」って思っているのがアリアリとわかるようなプレッシャーをかけやがんの。
お陰でできあがったその場で写真を撮って(だから背景はシンク)。
なんだったらその写真を撮る行為も待てない雰囲気を出している長男坊主。
これでも父ちゃんは急いでんだよ。
オメーのだけタバスコまみれにしてやんぞ。
なんてお茶目にも思っちゃったりしたわけです。
うん。
書くことない日も弁当つくってたらなんか書ける。
いいぞいいぞ。
ってことで、もうこの辺でくだらないのでおしまいであります。
皆さん、まだ火曜日です。
金曜日は遥か遠くです。
暑いですから頑張っていきましょう。
(取ってつけたようなまとめだな。。。)