どーも、親が勝手に決めている限界って、言葉に出さなくても子どもたちに伝播してしまうと思う親男です。
さて。
この週末は映画三昧の終末でした。
映画館で二本、うちで一本。
三本のうちに映画「国宝」がありました。
「国宝」の感想はまた別の機会に書くとして。
(たぶんワシの今年ナンバーワン映画。)
その「国宝」を観た映画の帰り道(今日さっき)、ブラブラと歩きながら。
「親」という存在って、ホントに厄介だな、なんて考えてました。
(「国宝」を観た帰り道に考えたことですが、映画とはまったく関係はないです、なんとなく連想からそんな考えに至りました。)
「親」は呪いなのだろうか。
それともこの世界に生み出してくれた言祝ぎなのだろうか、と。
「親」って。
子どもに対して圧倒的な影響力があるのに。
「親」自身で完璧なことってなくて。
どっちかと言えば、足らないことだらけで。
にもかかわらず。
「親」自身の偏りや自己欺瞞、自己満足、そういったことで。
子どもに影響を与えまくっているという。。。
私がむちゃくちゃ嫌いなものに。
「世襲」があります。
芸能界でも政界でも二世が我が物顔で闊歩して。
バカばっかだから。
ゼロスタートではなく親の何かを受け継いで人生を謳歌している奴って。
とにかく生理的に絶対的に嫌いなわけです。
くやしかったら、ゼロからやってみろ、バーカって。
で。
それはそれとしまして。。。
「世襲」って。
いかにもいいもの(名跡、血、血縁、地場、財産、地盤)を生まれたときから受け継いでいる、って。
わしが今使ったような言葉のイメージを持っているけど。
悪いものも受け継ぐ可能性もあるわけで。。。
目に見える悪いものなら借金だし、「負」動産だし。
目に見えないものなら親の「偏見」かなと。
親の偏見は間違いなく子どもに伝播するように思うのです。
そして、その偏見は「限界」を持っているわけで。
その辺の偏見が子どもたちに、はからずも「限界」を設定しちゃうのじゃないかと思うわけであります。
私が私の妻と結婚を決めた理由の一つが。
彼女が親(私にとっての義父母)のいい影響も悪い影響を受けながらも。
自分の知恵と勇気で人生を切り開いてきたってのがあります。
それはつまり。
「親を限界にしない」ということで、そういうところに惹かれて惚れました。
そういうとこはワシにとってすごく大事なキーワードなわけです。
と。
とりとめもなく書いていますが(っていつもだ)。
今日の映画の帰り道、一人歩きながら考えていたことです。
あともう一つ。
ワシがうちの子4人の限界になっちゃイヤだなと。
呪いになっちゃいやだ。
子どもたちの幸せを祈る言祝ぎでありたい。。。
。。。
。。。
うちの子たちにはいつも「お父さんよりもできるようになれ」と言っているのですが。
とか何とか言って。
ワシ自信が彼らのリミッターになってたら嫌だ。。。
ワシの持っている考え方、考えている範囲、考えのバイアス。
どんなに鷹揚に演じて構えていても。
一人の人間としての「臭み」や「灰汁」はあるわけで。
それが彼らの何かのリミッターになったとしたら。
嫌だ。。。
。。。しかし。
その「臭み」や「灰汁」も一緒に伝えてこその親子なのか。
と。
いろいろと考えちゃったりしたわけであります。
(マジで取り留めもねーな。。。)
ということで。
帰り道1キロちょっと。
地下鉄一駅分。
地下鉄でもバスでもタクシーでも。
使うわけでもなく。
ブラブラと歩きながら考えたことであります。
いい映画というものは。
人の感情や発想や思想を喚起してくれてるものだなーってつくづくと思います。
そういった意味では。
1キロちょっとのところに映画館がある環境っていいかも。